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政太郎が行く

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2011年5月 ARCHIVE

2011年5月 6日

ながさき自由研究所3 鉄橋

長崎で橋と言えば、何と言っても眼鏡橋が有名です。
1634年に興福寺2代目住職黙子如定さんが架けたもので、国の重要文化財に指定されています。
ですが、長崎の人なら誰でもわかる浜町アーケードを出たところに架かる鉄(くろがね)橋。
昭和6年にできたコンクリート製の橋ですが、なぜ鉄(くろがね)橋?
それ以前は、鉄橋が架かっていたからです。
慶応3年(1867年)の洪水のあと、オランダ人ホーケルさんが設計、本木昌造さんたちにより
明治元年に架けられた日本で最初の鉄橋だったのです。
総工費1万6千両は、当時半端じゃない金額だったそうです。
本木昌造さんは当時の長崎製鉄所(現三菱重工長崎造船所)の頭取で「近代印刷の祖」とも言われている人です。
高校生の頃まではよく通った橋ですが、こんな歴史があったとは。
今度からは、ありがたく渡らせて頂きましょう!

2011年5月 5日

ながさき自由研究所2 写真術

1838年に長崎で生まれた上野彦馬さん、父の俊之丞さんは日本で初めて写真機を輸入した人物。
彦馬さんは漢学・蘭語を学んだあと医学伝習所に入門し、オランダ海軍医のポンぺさんもとで化学を勉強していたが教科書にあった写真術に興味をもち、その研究に没頭。
写真機から薬品まで手作りして試行錯誤を繰り返し、ついに撮影に成功。
23歳で上野撮影局を開業するも、名刺版の写真一枚が金二分(現在の5万円?)と高く、お客は少なく僅かに外国人(グラバーさんなど)が訪れるだけ。
また当時は、「写真を撮ると魂が吸い取られる」と信じている人が大多数。
それでも明治の世になると、坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文などが訪れるようになり商売繁盛。
彦馬さんの腕は高く評価され、全国からの多くの門下生を抱えることに。
アメリカの博覧会でも好評を得て、18代大統領グラント将軍やロシア皇太子ニコライ2世など、
多くの著名人を写したそうです。
明治維新の偉人達の写真は彦馬さんが撮ったものがたくさんあるでしょうね!

2011年5月 4日

ながさき自由研究所1 ビワ

高校の後輩が同窓会SNSで紹介してくた冊子で、長崎市の広報紙「広報ながさき」に平成12年2月号から21年11月號まで109回にわたり連載されたものです。
知ってるようで知らなかったこと、まったく知らなかったこと、自分の故郷のことで面白かったことを少しずつ紹介します。今回はその1です。

いまから170年ほど前、長崎の中心地から7㎞ほど離れた小さな漁師町「茂木」の女性三浦シオさんが唐通事(中国貿易の通訳兼世話役)からもらった唐ビワの種を自分の庭のまいたのが茂木ビワの始まりだそです。
それまであった日本のビワより断然品質(大きくて甘い)がよく長崎の名産品になりました。
現在、全国の出荷量の30%が長崎市内産で全国一位です。
思い起こすと40年ほど前、弟たちと茂木の親戚の家へよく遊びに行ってました。
そして、悪がき3兄弟は小高い丘のビワ畑の散策に出かけ、ゴルフボール2個分ほどもある最高級の茂木ビワをバクバク食っておりました。(もちろん勝手に)
すみませんでした、農家のおじさん。

2011年5月21日

ながさき自由研究所6 長崎とビール

上海も急に暑くなりビールがおいしい季節になりました。
長崎とビールと言えば、過去何回か登場いただいているトーマス・ブレーク・グラバーさん。
イギリス人のグラバーさんは、若くして上海に駐在しキャリアを積んで長崎に移り住み、洋式採炭、造船技術、その他あらゆる方面で日本の近代化に大きく貢献した人物ですね。
1870年(明治3年)、日本で初めて大衆向けにビールを醸造・販売したのは横浜在住のたアメリカ人コープランドさん。その会社が盛衰を経て、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」として設立されるのに参画したのがグラバーさん。更にその後、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」は三菱財閥傘下でキリンビールへと発展することになります。
キリンビールに描かれた伝説の生き物「麒麟」は、今もグラバー園に残る狛犬がモデルと言われ、麒麟の髭はグラバーさんの口髭を模したと言われています。
今夕は冷えたキリンビールをググッと飲もう!

2011年5月20日

ながさき自由研究所5 6月22日 ボウリングの日

1861年6月22日、長崎大浦外国人居留地に「インターナショナル・ボウリングサロン」が日本で最初に開業されたのを記念して6月22日がボウリングの日に定められています。
ボウリングの原点は、ピンを悪魔に見立て石を転がしてピンを倒す悪魔祓いで、それが時代と共に宗教的な儀式に発展していき、宗教改革で有名なルターが9本のピンを倒す「ナインズピン」のルールを作り更に発展させ、それがアメリカで現在の10本のボウリングに定着したそうです。
1861年、当時長崎で最有力の貿易商グラバーさんと交流のあった坂本竜馬が、日本で最初にボウリングをした男だった、かもしれませんね。
Mattは14年ほど前、上海に駐在を始めた頃、夜やることがなくて、よくボウリングをやりました。
16ポンドのマイボールで一晩10ゲームとか。(紹興酒はおいてなかったのでビールを飲みながら)
その後、ほとんどやらなくなりましたが、たまにやると150点ほどで、たまたまには200点UPの時もあるかな~。
今度一緒にやりましょう!

2011年5月14日

ながさき自由研究所4 南極観測船 宗谷

初代の南極観測船となる「宗谷」は昭和11年長崎の河南工業(跡地がの三菱重工香焼造船所)で建造された。
当初は南極観測船としてではなく、ソ連からの発注で耐氷型貨物船「ボロチャベツ」として竣工したが、日中戦争の勃発でソ連との商談は破断となり昭和13年民間貨物船「地領丸」として世に出た。 (ソ連からは建造費を入金済みだったのでタナボタ?後で裁判沙汰になった模様)
昭和15年、当時最新鋭の装備を持つ「地領丸」は日本海軍に買い取られ「宗谷」と改名された。
「宗谷」はアメリカの潜水艦に攻撃されたり(不発弾を食らう)、ミッドウェー海戦にも参戦したが無事に生き延び、昭和31年11月、耐氷構造と運の良さをかわれ初代の南極観測船に抜擢された。
その後、6回にわたる南極観測業務に従事して海上保安庁の巡視船となり昭和53年に引退。
「南極物語」のタロ・ジロの2頭も「宗谷」の乗組員だった。
誕生から73年を迎える「宗谷」は東京お台場船の科学館で一般公開されている。

中国のお客さんを連れて何度も「船の科学館」を訪問し、「宗谷」にも乗船していました。
今度はもっとまじめに見学しよう!